旭化成HMD撤退が映す真実:なぜ世界はInvista・Ascend・BASFの寡占に収れんしたのか

ハーバー・ボッシュ

旭化成がヘキサメチレンジアミン(HMD)の製造から撤退する――このニュースは、一企業の事業整理にとどまらない意味を持つ。HMDはナイロン66の基幹原料であり、世界市場ではInvista、Ascend、BASFという限られた企業に供給が集中している。一方、中国はHMDを主戦場とせず、別の材料戦略を選んできた。本稿では、旭化成の撤退を起点に、HMD市場が三強寡占へ収れんした理由と、「日本的最適解」が世界標準にならなかった背景を読み解く。

もくじ

  1. 旭化成がHMD事業から撤退したというニュース
  2. HMDとは何か──目立たないが代替できない基礎化学品 2-1. HMDの用途と重要性 2-2. HMDが“世界商品”になった背景
  3. 世界のHMD供給構造──三強寡占という現実 3-1. なぜ Invista が圧倒的に強いのか 3-2. Ascend Performance Materials と BASF の位置づけ
  4. なぜ旭化成はC4ルートへ転換しなかったのか 4-1. 技術の問題ではなかった 4-2. 日本の原料構造と投資合理性
  5. 中国はなぜHMDを“積極的に作らない”のか 5-1. 中国の選択は「別のC6」だった 5-2. HMDを作らないこと自体が戦略
  6. 日本的最適解は、なぜ世界の最適解にならなかったのか
  7. HMDの未来──寡占は続くのか
  8. まとめ


旭化成がHMD事業から撤退したというニュース



2024年、**旭化成**がヘキサメチレンジアミン(HMD)の製造から撤退する方針を示した。
HMDは、ナイロン66(PA66)の基幹原料であり、自動車部品や電気・電子材料、工業用途など、長年にわたって日本のものづくりを支えてきた重要な化学品である。そのHMDを国内で一貫製造してきた大手メーカーが事業から手を引くという事実は、決して小さなニュースではない。


もっとも、この動きを「採算が合わなくなった一事業の整理」として片づけてしまうと、本質を見誤る。HMDはすでに、日本国内の需給やコストだけで成立する製品ではない。PA66のグローバル化とともに、HMDもまた**完全に国境を越えた“世界商品”**となり、価格や供給構造は国際市場で決まるようになっている。


その中で、日本の製造コスト、原料事情、投資環境は年々厳しさを増してきた。旭化成の撤退は、個別企業の競争力の問題というよりも、HMDという化学品を取り巻く世界的な産業構造の変化が、日本の製造拠点と適合しなくなった結果と捉える方が自然だろう。


実際、世界に目を向けると、HMDの供給は特定の企業に強く集中している。Invista、Ascend Performance Materials、BASFといった限られた企業が中核的な役割を担い、新規参入はほとんど見られない。一方、中国では、HMDを積極的に増産する動きは限定的で、別の材料・別の戦略が選択されている。


つまり、このニュースは「旭化成が撤退した」という話にとどまらない。
これは、日本企業の一判断を起点として、HMDという基礎化学品が世界でどのように選別され、どの企業だけが残る構造になったのかを考える入口なのである。


HMDとは何か──目立たないが代替できない基礎化学品



ヘキサメチレンジアミン(HMD)は、一般の消費者にはほとんど知られていない化学品である。しかし、工業材料の世界では、HMDは極めて重要な位置づけを持つ。理由は単純で、HMDがなければナイロン66(PA66)は成立しないからだ。


PA66は、自動車、電気・電子、機械部品といった分野で長年使われてきた高機能エンジニアリングプラスチックであり、その性能の源泉がHMDにある。HMDは、アジピン酸と重合することで、耐熱性、機械強度、耐薬品性に優れたPA66の分子骨格を形成する。代替が難しいのは、この分子構造そのものに理由がある。



HMDの用途と重要性



HMDの最大の用途は、PA66向けである。PA66は、エンジン周辺部品、ギア、コネクタ、電装部品など、高温・高負荷環境にさらされる用途で広く使用されてきた。これらの用途では、一般的なナイロン6(PA6)では性能が不足するケースが多く、PA66が選ばれてきた歴史がある。


確かに、近年はPA6の改質技術が進み、PA66の一部用途が代替されつつある。しかし、耐熱性や寸法安定性、長期信頼性が厳しく求められる分野では、依然としてPA66が不可欠であり、その原料であるHMDの重要性は変わっていない。


つまりHMDは、用途が限定的である一方、**必要とされる場面では確実に必要とされる「代替しにくい原料」**なのである。



HMDが“世界商品”になった背景



かつてHMDは、PA66メーカーが自社内で製造・消費する、いわばクローズドな原料であった。しかし、PA66市場のグローバル化とともに、その位置づけは大きく変わった。自動車産業や電気・電子産業が世界規模で再編される中で、PA66の生産も国境を越えて最適化され、HMDもまた国際的に取引される原料へと変化していった。


この過程で重視されるようになったのが、品質そのものよりも、供給の安定性とコスト競争力である。一定以上の品質を満たしていれば、あとは「安定して、安く、大量に供給できるか」が評価軸となり、HMDは典型的なグローバル・コモディティの性格を強めていった。


結果として、HMD市場では規模の経済と原料優位が決定的な意味を持つようになり、少数の巨大プレーヤーに供給が集中していく土壌が整った。HMDが目立たない存在でありながら、世界市場で厳しい選別にさらされる化学品となった背景には、このような構造変化がある。

世界のHMD供給構造──三強寡占という現実

現在のHMD市場を俯瞰すると、供給構造は驚くほど単純である。世界のHMD供給は、Invista、Ascend Performance Materials、BASFという三社を中心に成立しており、新規参入や勢力図の変化はほとんど起きていない。HMDは名目上はグローバルに取引される化学品であるが、その実態はごく限られた企業だけが製造できる寡占市場である。

この構造が固定化された背景には、HMDという製品の性格と、製造プロセスに内在する高い参入障壁がある。

なぜ Invista が圧倒的に強いのか

HMD市場で最も強い存在感を持つのが Invista である。Invistaの強さは、単に生産能力が大きいという点にとどまらない。その本質は、C4(ブタジエン)を起点とする一貫した原料設計にある。

Invistaは、ブタジエンからアジポニトリル(ADN)を製造し、これを水素化してHMDへと転換する、いわゆる王道ルートを確立している。この中核となるのがヒドロシアネーション技術であり、猛毒のHCNを扱いながら高い選択率と長期安定運転を実現するこの技術は、容易に模倣できるものではない。

さらに、原料調達、製造技術、設備規模のすべてが噛み合っている点も大きい。原料コストを抑え、工程を短くし、大規模で回す――この三拍子が揃った結果、InvistaはHMD市場において圧倒的なコスト競争力と供給安定性を手にしている。HMDがコモディティ化する中で、この構造的優位は決定的な意味を持つようになった。

Ascend Performance Materials と BASF の位置づけ

Invistaに次ぐプレーヤーとして存在感を示すのが Ascend Performance Materials である。Ascendは、HMD単体で勝負するというよりも、PA66までを一体で設計するビジネスモデルを採っている点が特徴だ。原料から樹脂までを自社で最適化し、特定用途に強みを持つことで、HMD市場における確固たるポジションを築いている。

一方、BASF は、欧州を代表する総合化学メーカーとして、フェアブント(統合生産)を活かした安定供給を強みとする。原料から中間体、最終製品までを統合的に運営できる体制は、HMDのような設備集約型・リスク集約型の化学品において大きなアドバンテージとなる。BASFは、Invistaほどの専業的な強さはないものの、供給信頼性という点で市場に欠かせない存在である。

この三社に共通しているのは、HMDを中途半端な事業として扱っていないという点だ。いずれも原料設計、設備投資、リスク管理を前提にした長期戦略の中でHMDを位置づけており、結果として勝者が固定化された。

こうして見ると、HMD市場はもはや「競争市場」というよりも、参入条件を満たした限られた企業だけが残る選別後の市場と表現した方が実態に近い。旭化成の撤退は、この構造がすでに完成していることを、あらためて浮き彫りにした出来事だったと言えるだろう。


なぜ旭化成はC4ルートへ転換しなかったのか



旭化成のHMD撤退を語る際、「なぜC4(ブタジエン)ルートへ転換しなかったのか」という疑問は避けて通れない。Invistaをはじめとする世界の勝者が、C4を起点としたADN→HMDルートで圧倒的な競争力を築いている以上、「同じ土俵に立てばよかったのではないか」という見方が出るのは自然だ。


しかし、この問いに対する答えは単純ではない。結論から言えば、旭化成がC4ルートへ転換しなかったのは、技術的にできなかったからではなく、事業として合理性がなかったからである。



技術の問題ではなかった



まず強調しておくべき点は、**旭化成**にC4ルートを扱う技術力がなかったわけではない、ということだ。ヒドロシアネーションや高圧水素化、触媒反応の制御といった要素技術は、旭化成が長年培ってきた分野と重なる部分も多い。


問題は「できるかどうか」ではなく、「その技術を前提に事業を組み替える意味があったかどうか」にあった。C4ルートへの転換は、単なる工程変更では済まない。原料調達、設備、安全対策、操業ノウハウのすべてを一から再構築することを意味する。



日本の原料構造と投資合理性



C4ルート最大の前提条件は、ブタジエンを大量かつ安定的に調達できることである。しかし日本の石油化学構造では、ブタジエンはナフサクラッカーの副生品であり、量的制約が大きく、価格変動も激しい。合成ゴムなど他用途との競合も強く、HMD向けに長期安定で確保する前提は立てにくい。


さらに、C4ルートを本格的に導入するには、ヒドロシアネーション設備やHCN製造設備、厳重な安全対策を含む大規模な新規投資が必要となる。その一方で、既存のベンゼン系ルートの設備は座礁資産化するリスクを抱える。日本立地における建設コストや規制対応を考慮すれば、投資回収のハードルは極めて高い。


加えて、旭化成にとってHMDは、全社戦略の中核事業ではなかった。住宅、医療、エレクトロニクス、機能材料といった他の成長分野と比較すると、HMD事業に「会社を賭ける」だけの戦略的必然性は乏しかったと言える。


このように整理すると、旭化成の判断は「C4ルートに負けた」というよりも、できることと、やるべきことを冷静に切り分けた結果と理解する方が適切だろう。C4ルートへの転換は、技術的挑戦ではなく、経営として割に合わない選択肢だったのである。

中国はなぜHMDを“積極的に作らない”のか

世界のHMD供給構造を見渡すと、もう一つの特徴的な点が浮かび上がる。それは、中国がHMDの大規模供給者になっていないという事実だ。多くの基礎化学品で圧倒的な存在感を示す中国が、HMDに関しては慎重な姿勢を保っている。この点を「技術的に遅れているから」と解釈するのは、やや短絡的である。

実態はむしろ逆で、中国はHMDという化学品をあえて主戦場にしない選択をしてきたと見る方が妥当だ。

中国の選択は「別のC6」だった

中国の高分子材料戦略の特徴は、用途を満たすために、必ずしも同じ材料を使わない点にある。PA66が必要とされてきた用途の多くについて、中国ではPA6の高機能化や、PET、PBTといった別系統の樹脂への置換が進められてきた。

これらの材料は、原料調達が比較的容易で、製造プロセスも確立している。結果として、HMDという特殊性の高い中間体を使わずとも、「十分な性能」を満たす材料設計が可能となった。中国にとって重要なのは、世界最高水準の性能ではなく、市場が受け入れる水準を安定して大量に供給できるかどうかである。

この発想に立てば、HMDを軸にPA66を拡大するよりも、別のC6原料や別ポリマーに軸足を移す方が合理的だった。

HMDを作らないこと自体が戦略

もう一つ見逃せないのが、HMD製造に伴うリスクである。HMDの主流製造ルートであるヒドロシアネーションは、猛毒のHCNを扱う高リスクプロセスであり、設備投資や安全対策の負担が極めて大きい。事故が起きれば、企業リスクにとどまらず、社会的・政治的な問題に発展しかねない。

中国企業にとって、このリスクを引き受けてまで高純度HMD市場に参入する必然性は小さい。HMDは市場規模が限られており、しかも先行企業が強固な地位を築いている。そこで正面から競争するよりも、HMDを使わない材料体系へ市場を誘導する方が、はるかに効率的だった。

言い換えれば、中国はHMDで「負けている」のではない。

HMDという土俵そのものを主戦場から外し、別の勝ち方を選んだのである。


日本的最適解は、なぜ世界の最適解にならなかったのか



旭化成のHMD撤退、世界における三強寡占、中国の別戦略――これらを一つの流れとして捉えると、浮かび上がってくるのは**「最適解の前提条件が変わった」**という事実である。


日本の化学メーカーが長年追求してきたのは、高品質、安定操業、安全性、そして長期視点に立った事業運営だった。限られた原料条件の中で歩留まりを高め、トラブルを極小化し、顧客からの信頼を積み重ねる。HMDのような基礎化学品においても、この考え方は一貫しており、旭化成のベンゼン系ルートは、その象徴とも言える存在だった。


しかし、HMDを取り巻く環境は変化した。PA66の用途が世界に広がり、供給網がグローバルに再編される中で、HMDは**「高品質であること」よりも、「安定して、安く、大量に供給できること」が最優先される原料**へと性格を変えていった。一定以上の品質が担保されれば、その先は原料優位、工程の短さ、設備規模がすべてを決める世界である。


この文脈において、日本的な最適解は必ずしも不合理ではなかったが、世界市場で勝ち続けるための最適解ではなくなった。芳香族を起点とする重い工程、エネルギー負荷の高いプロセス、日本立地特有のコスト構造――これらは、グローバル・コモディティ化したHMD市場においては不利に働く要因となった。


一方で、InvistaやAscendが選んだのは、原料優位を最大化し、工程を極限まで短縮し、リスクを織り込んだうえで規模で勝負するという解である。中国はさらに一歩進め、HMDそのものを主戦場にしないという判断を下した。いずれも、前提条件の変化に対して整合的な選択だった。


ここで重要なのは、日本的最適解が「間違っていた」わけではないという点だ。それは特定の時代、特定の条件下では確かに合理的だった。ただし、前提条件が変わった以上、最適解も変わる。HMDという素材は、その変化を最も端的に示す例の一つだったと言える。


HMDの未来──寡占は続くのか



では、HMDの供給構造は今後どうなるのだろうか。結論から言えば、当面は三強寡占の構図が大きく崩れる可能性は低いと考えられる。HMDは需要規模が限られる一方、製造には高度な技術、安全対策、巨額の設備投資が必要であり、新規参入のハードルは依然として高い。既存プレーヤーが築いてきた原料・技術・規模の優位性は、短期間で覆るものではない。


また、PA66自体の位置づけも変化している。PA66は今後も自動車や電装分野などで一定の需要を維持するだろうが、用途はより選別されていくと見られる。すべての用途でPA66が必要とされる時代は終わり、「PA66でなければならない領域」に限定されて残っていく材料になりつつある。その結果、HMDもまた、量的拡大を続ける素材ではなく、安定供給が重視される戦略原料としての性格を強めていく。


このような市場環境では、無理な増設や新規参入よりも、既存設備をいかに安定的に運用し続けるかが重要になる。三強企業にとっては、供給責任とコスト競争力を維持することが最大の課題であり、HMD市場は「拡大」よりも「維持と最適化」のフェーズに入ったと言えるだろう。


一方で、日本企業にとっての示唆も明確だ。HMDの事例は、グローバル・コモディティ化した素材において、原料優位や規模で勝てない場合、撤退や事業再定義も合理的な選択肢になり得ることを示している。同時に、日本企業が今後勝ち筋を見出すとすれば、HMDのような基礎原料そのものではなく、その先の機能設計や用途開発、あるいは別の前提条件が支配する領域である可能性が高い。


HMDの未来は、静かな寡占の継続である。その中で、日本企業は何を選び、どこに資源を配分するのか。この問いは、HMDに限らず、今後の日本の化学産業全体に突き付けられている。

まとめ

旭化成のHMD撤退は、一企業の事業整理として見れば静かなニュースかもしれない。しかし、その背景を世界のHMD供給構造まで引き延ばして考えると、これは基礎化学品がどのように選別され、どの企業だけが生き残るのかを示す象徴的な出来事だった。

HMDは、PA66という特定用途に強く結びついた原料であり、需要規模は決して大きくない。その一方で、製造には高度な技術、安全対策、巨額の設備投資が必要で、参入障壁は極めて高い。結果として、世界市場ではInvista、Ascend、BASFという限られた企業に供給が集中し、寡占構造が固定化した。

この中で旭化成が選んだのは、C4ルートへの転換ではなく撤退だった。それは技術的な敗北ではなく、原料条件、投資合理性、事業ポートフォリオを踏まえた冷静な経営判断と見るべきだろう。一方、中国はHMDという土俵に立つこと自体を避け、別の材料体系へ市場を誘導する戦略を取った。いずれも、前提条件の変化に対して整合的な選択である。

この一連の動きが示しているのは、日本的最適解が、必ずしも世界の最適解ではなくなったという現実だ。高品質・安定操業・長期視点という価値は今なお重要だが、グローバル・コモディティ化した素材では、それだけでは勝ち続けられない。原料優位、工程の短さ、規模――これらが支配する市場では、最適解そのものが変わってしまう。

HMDは、「選ばれた企業だけが残る化学品」になった。その事実を直視することは、HMDに限らず、今後の日本の化学産業がどこで戦い、どこから退くのかを考えるうえで、大きな示唆を与えてくれるはずだ。

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