三井化学のフェノール事業縮小が意味する日本の化学産業の課題と再編の行方

【第1章:はじめに:フェノールに何が起きているのか】

1-1、三井化学による市原工場フェノールプラントの2026年度停止決定
2024年4月、三井化学は千葉県市原市にあるフェノールプラントの稼働を2026年度までに停止する方針を発表しました。原料価格の上昇やアジア市場における競争激化などを理由とするこの決定は、国内化学業界にとって大きなニュースとなりました。

1-2、国内生産縮小のニュースが示す「単なる一社の戦略変更ではない」という本質
たとえば、三菱ケミカルも国内の一部プラントを再編対象とし、老朽設備の合理化を進めていると報じられています。また、出光興産は千葉工場でフェノールを継続生産しているものの、アジア市場における価格競争の厳しさに直面しています。JFEケミカルも副生物の処理や収益性確保の面で同様の課題を抱えており、フェノール産業全体に共通する構造的問題が浮かび上がっています。

1-3、本記事の目的:フェノール産業の過去と構造的課題を解き明かすこと
本記事では、三井化学の動きを起点に、フェノール産業の製造構造、歴史的変遷、国際競争、環境対応といった多角的な視点から、今この素材が直面している構造的課題を紐解いていきます。

【第2章:フェノールとは何か――製法と副生物の特徴】


2-1、フェノールの主な用途(ビスフェノールA、フェノール樹脂、農薬、可塑剤など)
フェノールは、さまざまな工業製品の原料として用いられており、用途の約半分はビスフェノールA(BPA)の製造に使われます。BPAはさらにポリカーボネート樹脂やエポキシ樹脂の製造に使用され、電子部品や建材、自動車部品に幅広く用いられています。そのほか、フェノール樹脂(熱硬化性樹脂)や農薬、可塑剤、界面活性剤の原料としても重要な役割を果たします。

2-2、主流の「クメン法」とは?
この製法は、1930年代にHockらによって開発され、現在では世界中の主要なフェノール製造企業、特に三菱ケミカルや出光興産、INEOS、SABIC、LG Chemなど多くの大手化学メーカーがこのクメン法を採用しています。ベンゼンとプロピレンを原料とし、触媒反応と酸化・分解反応を経てフェノールを得るプロセスです。

2-3、原料:ベンゼン+プロピレン
クメン法では、まずベンゼンとプロピレンを反応させてクメン(イソプロピルベンゼン)を生成します。これらの原料は石油化学由来であり、ベンゼンはナフサ分解によって得られ、プロピレンも同様に石油クラッカーやFCC(流動接触分解)装置から供給されます。

2-4、副産物:アセトン
次に、クメンを空気酸化してクメンヒドロペルオキシドを生成し、これを酸触媒下で分解することで、フェノールとアセトンが等モル比で得られます。アセトンは溶剤として塗料、接着剤、化粧品、医薬品などに使われるほか、アセトニトリルやメチルメタクリレート(MMA)などの中間体としても活用されます。

2-5、アセトン需給と価格がフェノール事業の損益に与える影響
フェノールおよびアセトンは国際商品市況に連動して価格が日々変動しており、製造業者にとってはリスクと機会の両面を持ちます。たとえば2020年のコロナ禍初期には溶剤用途が落ち込み、アセトン価格が一時的に急落したことで、フェノールプラントの稼働調整を迫られる事例が見られました。一方で、アセトン価格が高騰すれば副産物収益が全体採算を押し上げる効果もあります。

【第3章:日本のフェノール産業の歴史と競争構造】


3-1、戦後〜高度経済成長期:内需に支えられた生産拡大
日本におけるフェノールの商業生産は戦後の復興期に始まり、1950年代から1970年代にかけての高度経済成長期に急速に拡大しました。住宅、家電、自動車といった需要産業の急拡大により、フェノールはプラスチックや接着剤の材料として不可欠な素材となりました。
フェノールが不可欠とされた理由は、その化学構造に起因する高い反応性と熱安定性にあります。ビスフェノールAを通じて得られるポリカーボネート樹脂は、軽量で透明性が高く、衝撃強度にも優れるため、光学レンズ、CD・DVD、自動車部品などに使用されました。また、フェノール樹脂は耐熱性、耐薬品性、電気絶縁性に優れており、プリント基板や接着剤、ブレーキライニングなど多様な用途に適していました。これらの特性により、フェノールは工業製品の性能向上と大量生産に不可欠な基礎素材として位置づけられ、多数の石油化学メーカーがプラントを建設しました。

3-2、1990年代以降:需要の成熟化と国内設備の統廃合
設備の統廃合が始まります。たとえば、1999年には三井化学と三菱化学(当時)がフェノール事業の統合を検討し、競争力のある大型設備への集約と老朽設備の停止を進めました。また、出光興産は千葉工場の能力増強により高効率な生産体制を築き、JFEケミカルは副生成物の活用による差別化戦略を模索しました。これらの再編の目的は、原料調達の安定化、製品収益性の向上、そしてアジア市場での価格競争への対応でした。1990年代には国内の生産能力が過剰であったことから、三井化学や三菱ケミカルを中心に再編や提携が進み、生産の効率化と集約が進められました。

3-3、2000年代:三井化学・三菱ケミカル・出光興産などの寡占化と輸出型ビジネスの台頭
2000年代に入ると、国内需要の鈍化を背景に、日本のフェノールメーカーは輸出市場を重視するようになりました。特に三井化学はアジア向け輸出を積極化し、海外競合との価格競争に晒されるようになります。一方で、生産者の集約が進み、国内では三井化学、三菱ケミカル、出光興産が寡占的な地位を確立。これらの企業はフェノールから派生する誘導品(ビスフェノールA、フェノール樹脂など)を内製化することで、垂直統合型のビジネスモデルを展開していました。

こうした背景から、国内フェノール産業は成熟期を迎えながらも、アジアとの競争に対応すべく戦略的な選択を迫られることとなったのです。

【第4章:供給過剰時代の突入――アジア勢の台頭と国際競争】

4-1、中国・韓国の大型設備投資とコスト競争力
2000年代以降、中国や韓国では国家政策として石油化学産業の拡張が進められ、巨大なフェノール製造プラントが相次いで建設されました。中国ではSinopecやCSPC(Shellとの合弁)、韓国ではLG Chem、Lotte Chemicalなどが大規模な装置を稼働させ、スケールメリットを活かしたコスト競争力を確立しました。これにより、日本製品の国際価格競争力は相対的に低下し、輸出ビジネスの採算確保が難しくなっています。

4-2、副産物バランスを無視できる統合設備との価格差という強み

副産物バランスを無視できる統合設備との価格差という強みがあります。ここで言う「副産物バランスを無視できる」とは、フェノールとアセトンを等モルで生産するクメン法において、本来ならばアセトンの需要動向や価格に左右されるはずの操業判断を、統合設備では気にせずに済むという意味です。例えば、アセトンを別の誘導品(MMAやアセトニトリルなど)に社内消費できたり、全体利益の中で吸収できる体制があれば、アセトン市況が悪くてもフェノールの生産を継続できます。結果として、柔軟な価格対応や稼働率の維持が可能となり、日本企業に比べて競争上の優位を確保できるのです。日本企業の多くが副産物の収益確保を前提とした損益構造であるのに対し、アジア勢は価格優位性を持つ理由の一つとなっています。

4-3、日本国内メーカーの課題:小規模・老朽化・エネルギーコスト
価格競争における日本勢の苦境を招いています。これらの状況を反映して、日本のフェノールは近年、かつての輸出型ビジネスから一転し、徐々に輸入ポジションへと転じつつあります。国内需要を満たす一方で、採算の合わない輸出の縮小と一部海外製品の受け入れが進んでいるのが現状です。

一方、韓国や中国は明確に輸出志向のポジションにあります。韓国は高品質かつ価格競争力のある製品をアジアを中心に広く輸出しており、中国も内需拡大を背景にしつつ、余剰能力を東南アジアやインドなどに積極的に輸出しています。これらの国々が価格決定力を持つ中で、日本の供給体制は防戦を強いられています。

【第5章:需要構造の変化と国内生産の縮小】


5-1、川下(需要側)変化:
フェノールの主な用途であるビスフェノールA(BPA)やフェノール樹脂などの誘導品は、電子材料、自動車、建材など多くの産業に使われていますが、近年これらの川下産業にも大きな構造変化が生じています。特にBPAを利用したポリカーボネート(PC)樹脂やエポキシ樹脂の需要変動が、フェノールの需給に直接影響を与えています。

5-2、ビスフェノールA需要のピークアウト(PC樹脂の需要頭打ち、BPAフリー志向)
BPAを排除する動きが進展しています。これは、BPAが内分泌かく乱物質(いわゆる環境ホルモン)として作用する可能性が指摘されており、乳幼児や妊婦の健康に対する潜在的なリスクが懸念されているためです。欧州連合(EU)では食品接触材料としてのBPA使用に制限が課されており、米国でも一部用途において禁止措置が取られています。こうした動きは消費者の安全意識と相まって、企業側も「BPAフリー」製品の開発と表示強化を進める要因となっています。こうした流れは、BPA需要の減少を通じて、フェノールの市場にも影響を与えています。

5-3、自動車産業の部品軽量化、EV化による影響
フェノール系から他材料への切り替えも起こりうる状況となっています。その背景には、EVでは電池周辺部品や電装部品において、より高い耐熱性や寸法安定性、絶縁性が求められており、フェノール系樹脂では性能的に限界があるケースもあるためです。また、軽量化よりも熱伝導性や構造強度が優先される用途では、金属やセラミックなどの高機能材料への置換が合理的と判断されることが多くなっています。

5-4、三井化学の判断:国内でのフェノール生産は割に合わない
こうした川下需要の変化と、アジア地域での供給過剰・価格低迷を踏まえ、三井化学は市原工場のフェノールプラントを停止し、事業ポートフォリオの見直しを図ると判断しました。フェノール誘導品の一部は外部調達で対応することが可能であり、国内生産に固執するメリットが薄れたと考えられます。

5-5、他社(例:三菱ケミカル、出光興産、JFEケミカル)の今後
三菱ケミカルや出光興産は、なお国内でのフェノール製造を続けていますが、今後も収益確保の見通しが厳しい場合、類似の判断を迫られる可能性があります。JFEケミカルは鉄鋼副産物を活用した原料調達で特徴を持ちますが、需給変動や環境対応コストの上昇がその競争力に影を落とす可能性も否めません。フェノール産業全体が持続可能な供給体制をどう構築していくかが問われています。

【第6章:今後の方向性――生き残りの道と環境対応】


6-1、フェノール製造における環境負荷の可視化
フェノール製造は化学反応プロセスに伴い、揮発性有機化合物(VOC)や二酸化炭素(CO₂)、排水中の有機汚濁物質を排出します。これらの排出物は、大気汚染、水質汚濁、温暖化の要因となるため、環境規制や地域住民との共生の観点から、排出量の管理と開示が求められています。

6-1-1、クメン法ではVOC(揮発性有機化合物)、CO₂、排水有機汚濁負荷が発生
製造過程では、プロピレンやクメンの揮発によるVOC排出、反応・加熱工程におけるエネルギー消費によるCO₂排出、さらに未反応物や中間生成物が排水に含まれ処理負荷となるケースが見られます。

6-1-2、国内法(PRTR法・大気汚染防止法・化管法)に加え、国際的な規制対応の負担増
国内では、化学物質排出移動量届出制度(PRTR法)、大気汚染防止法、水質汚濁防止法などにより排出量の届出・管理が義務づけられており、さらに国際的にはESG投資の拡大やISO14001等の取得要件強化が進んでいます。

6-2、REACH規制(EU)への対応

6-2-1、フェノールはREACHの認可対象候補物質ではないが、強い皮膚腐食性・眼刺激性があり、安全性評価とSDSの更新が頻繁に求められる
REACH(欧州化学品規制)では、フェノールはCLP(分類・表示・包装)上、Acute Tox. 3(経口)、Skin Corr. 1B、Eye Dam. 1などに分類されており、SDS(安全データシート)の提供義務や暴露評価が求められます。規制強化に備えて、継続的な毒性試験や暴露データの整備が必要です。

6-2-2、アセトンはREACH下で「可燃性液体」「眼刺激性」の分類に該当し、製品安全性データシート(SDS)の提出義務、暴露評価が必要
アセトンはFlam. Liq. 2(引火性液体)、Eye Irrit. 2Aなどに分類され、保管・輸送・取扱いに関する規制対応が不可欠です。GHS(世界調和システム)との整合性も必要であり、輸出業者は各国法規に適合した対応が求められます。

6-3、GHS(化学品の分類および表示に関する世界調和システム)との整合性

6-3-1、フェノール:Acute Tox. 3(経口)、Skin Corr. 1Bなど
6-3-2、アセトン:Flam. Liq. 2、Eye Irrit. 2A
6-3-3、輸出入時の法規制、荷姿・保管設備設計にも影響
GHS分類により、化学物質は危険性に応じたラベル表示や輸送容器の設計が求められます。国際物流における法規制への準拠が製品販売の前提条件となっており、コストや管理負担の増加要因となります。

6-4、規制コストが採算性に与える影響

6-4-1、EU向け輸出を維持するには、REACH登録や追加の毒性試験費用(数千万円単位)が必要
特にEU市場では、新たな分類の導入や評価制度の更新が頻繁に行われており、化学品輸出企業には継続的な情報更新と財務的な対応力が求められます。

6-4-2、老朽設備での対応は困難となり、新設備投資を断念する要因にも
既存プラントに対する法的要件の対応は、改修費用や稼働停止リスクを伴うため、投資判断の重荷となります。その結果、収益性の低い設備については稼働停止や事業縮小が選択される傾向が強まっています。

6-5、サステナビリティ対応型の再編可能性

6-5-0、日本のフェノールメーカーが取り得るビジネス上の選択肢
環境規制対応と並行して、国内メーカーにはいくつかの戦略的選択肢が存在します。一つは、川下の誘導品に特化した高付加価値路線へのシフトです。たとえば、電子材料向けフェノール樹脂や特殊グレードのBPAなど、用途特化型製品の開発・供給により、価格競争から脱却する道が考えられます。

もう一つは、アジアメーカーとの戦略的提携・ジョイントベンチャーによる原料確保・生産のアウトソーシングです。コストの優位性を持つパートナーと補完関係を構築することで、競争力を維持しながら国内技術や販売網を活用するモデルが注目されます。

さらに、製造設備の集約や共同物流など、業界横断的な効率化によってスケールメリットを創出し、採算性を改善する取り組みも重要です。フェノール単体ではなく、誘導品・派生事業との統合的な事業設計が、今後の持続的経営の鍵となります。

6-5-1、バイオベースフェノール(例:リグニン系フェノール、p-クマル酸由来)への転換技術開発
バイオマス由来の芳香族化合物を原料とするフェノール合成は、カーボンニュートラルや資源循環の観点から注目されており、国内外で技術開発が進められています。

6-5-2、LCA(ライフサイクルアセスメント)対応のフェノール製品設計
原料調達から廃棄・リサイクルまでの環境負荷を定量的に評価するLCA対応は、今後の製品競争力や企業評価にも直結します。

6-5-3、グリーン認証やESG報告対応と事業戦略の統合
サプライチェーン全体での環境情報開示が求められる中、フェノール事業も環境戦略・企業理念と統合した運営が不可欠となりつつあります。

【第7章:おわりに】


7-1、三井化学の国内生産縮小は、単なる採算悪化による撤退ではなく、環境対応と規制対応負担の時代的変化を象徴している


三井化学のフェノール事業縮小は、安易な合理化ではなく、基礎化学品ビジネス全体が直面している構造変化と規制環境の激変を反映した動きです。環境・健康リスクへの対応、国際規制の強化、エネルギーコストの高止まりなど、多面的な要因が企業の戦略を根本から揺るがしています。

7-2、フェノールのような「副生成物を伴う」素材は、需給だけでなく副産物処理や法規制コストの影響を強く受けやすい


クメン法のように副産物が必ず発生する製造プロセスでは、フェノール単体の価格だけでなく、アセトンの市況、輸送コスト、危険物管理など、複数の変数が事業採算を左右します。これは他の基礎化学品にも共通する課題であり、「統合型事業モデルの優位性」が一層問われる時代になっているとも言えます。

7-3、今後、REACHやGHS、国内化学物質規制が一層強化される中、日本の基礎化学産業は「規模」ではなく「持続可能な運営モデル」への転換を迫られている

日本の化学メーカーは、かつてのようにスケールで勝負するのではなく、環境調和型・地域共生型の運営モデルへの転換を進める必要があります。ESG・LCA・バイオ原料活用といったテーマを経営の中心に据えた事業再構築が、今後の競争力の源泉となるでしょう。フェノールは、その変革の象徴的な存在として、これからの日本の化学産業の在り方を問い直す起点になり得ます。

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